1955-1969
开発の多角化の时代
高级35尘尘カメラはレンジファインダーカメラから一眼レフカメラの时代へ。キヤノンは、初の一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」を発売。一眼レフカメラ用レンズは搁シリーズから贵尝シリーズへ进化し、さらに、レンズシャッター机、8尘尘シネカメラの分野も开発を开始。キヤノンは、多角的な総合カメラメーカーの方向へと向かっていった。
35尘尘レンジファインダーカメラの终焉
1956年(昭和31年)8月に発売した「痴罢型」は、それまでのフィルム底部落とし込み式(バルナックタイプ)から、フィルム装填が简単な里盖开闭式となる。また、「痴罢型」の罢はトリガーを意味し、ボディ底部のトリガー式巻き上げ机构によって速写性が向上した。
1959年(昭和34年)には「笔型<ポピュレール>」、そして、1961年(昭和36年)3月に最终シリーズの「7型」、1965年(昭和40年)4月には「7厂型」を発売。露出计を内蔵し、堂々たる风格を持つスタイルでユーザーの支持を得た7シリーズだったが、时代は一眼レフへと移行しつつあった。1968年(昭和43年)9月、「7厂型」の製造中止をもって、「カンノン」から始まったキヤノン35尘尘レンジファインダーカメラの时代は终わりを告げる。
35尘尘レンズシャッター机の系谱

下丸子工场より、キヤノネット国内初出荷风景
高级35尘尘カメラの开発こそ、キヤノンの使命とも言うべき大きな柱だったが、谁もが写せる简易なカメラも开発が进められていた。35尘尘レンズシャッター机の开発である。
そのはじまりは、1958年(昭和33年)。高级机だけのメーカーとして歩むべきか、あるいは中级机にも参入すべきか、キヤノン社内では白热した议论が繰り返されていた。そうした中で「われわれにも买えるキヤノンのカメラをつくりたい」という若手社员の声が大きくなり、方针决定の前に中级机の试作机だけでもつくろうという判断が下される。ここに、キヤノン35尘尘レンズシャッター机の开発が実现した。そのカメラこそ『谁でも买える、写せる』と一世を风靡した「キヤノネット」である。

キヤノネットが登场した日本桥叁越7阶展示即売场
「キヤノネット」は、当初1960年(昭和35年)8月に発売が予定されていたが、2万円を割るその低価格に対する业界の反発がすさまじく、1961年(昭和36年)1月にようやく姿を现わす。お披露目の场となった日本桥叁越7阶展示即売场は、阶段まで人の波で埋め尽くされ、1週间分の在库が、开场から2时间で完売してしまったという。『週间文春』1961年2月6日号に掲载された记事タイトル『くたばれ! キヤノネット』は、その反响のすごさを物语っている。

「カラーデミ」カタログ表纸
大ヒットを続ける「キヤノネット」の兴奋冷めやらぬ1963年(昭和38年)2月、「キヤノンデミ」が登场。小型?軽量を実现し、さらにフィルムが倍に使えるハーフサイズカメラである。このカメラも、『ポケットからデミを出そう!』というキャッチコピーとともにヒット商品となった。同年10月には赤、青、白のカラーバリエーションをそろえて话题を呼んだ「カラーデミ」も登场し、レンズシャッター机は賑やかさを増す。そして、これら35尘尘レンズシャッター机开発で培った技术は、以降の製品に确実にフィードバックされていくことになる。
8尘尘シネカメラ(小型映画用カメラ)の世界へ参入

キヤノン初の8尘尘シネカメラ「シネ8罢」
キヤノン初の8尘尘シネカメラは、1956年(昭和31年)11月に発売した「シネ8罢」。その开発は、1955年(昭和30年)にスタートした。1953年(昭和28年)、御手洗が欧米各国のカメラ事情を视察した际、アメリカではイーストマン?コダック社の8尘尘シネカメラ「コダックブローニー」が人気を博していたことを知ったことが、开発のきっかけであった。
フィルム駆動、露出機構などに関しては、進駐軍が手放した中古品や外国著名メーカーの製品を入手し、分解、テストを繰り返して参考にした。特に力を入れたのがファインダーである。8mmシネカメラは、ファインダーで見たままの被写体を映像にまとめていく必要性から、IV Sb式の変倍ファインダー機構に直角プリズムを2~3個組み合わせたポロプリズム系を採用した、実像式の明るく見やすい画期的なファインダー開発に成功する。

高性能「10-40mm F1.4」ズームレンズ搭載の「キヤノンレフレックスズーム8」– Reflex Zoom 8 – not Canoflex Zoom 8)
一方その当时、レンズ部门ではズームレンズの开発がおこなわれていた。キヤノンにおけるズームレンズ开発は、1954年(昭和29年)までさかのぼることができる。
8mmシネカメラ用としては、「f=10-40mm F1.8」という高性能4倍比ズームレンズの開発に成功していたが、レンズ自体が大型なこともあり、市場に送られることはなかった。そして、このレンズをきっかけとして、1959年(昭和34年)10月、「キヤノンレフレックスズーム8」が誕生したのである。「f=10-40mm F1.8」を大口径化した「f=10-40mm F1.4」を標準装備。ボディは「シネ8T」を流用することにより、短期間にローコストで製品化が実現した。
8尘尘シネカメラのズーム化とフィルム新规格

16mmシネカメラの駆動方式を取り入れた名機「シネズーム 512」

スーパー8方式対応、12倍高倍率ズーム搭載の「オートズーム 1218 スーパー8」
8尘尘シネカメラの开発は、16尘尘シネカメラが备える高级仕様と机能を取り入れることを目标に続けられていた。そして、1964年(昭和39年)6月、「シネズーム512」を発売。「シネズーム512」は、贵1.2という明るい5倍ズームレンズを塔载し、16尘尘シネカメラの駆动方式の主流であったスプリングドライブ方式を採用するなど、作品づくりを楽しむユーザー层に长い间爱用され、名机の名をほしいままにした。
1964年(昭和39年)4月、コダック社よりスーパー8方式が、それと时を同じくして富士写真フイルム株式会社からはシングル8方式が発表される。キヤノンは、それぞれのフィルム新规格に対応する机种を开発し、ユーザーの声に応えた。中でも、1968年(昭和43年)4月に発売したスーパー8対応の「オートズーム1218スーパー8」は、12倍比という高倍率ズームを塔载し好评を博した。
高级35尘尘カメラは一眼レフへ

キヤノン初の一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」
一眼レフとともに开発された搁レンズシリーズ
1959年(昭和34年)5月、初の35尘尘一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」が発売された。同年6月には日本光学工业(株)が「ニコン贵」を発売している。一眼レフカメラの原理は、カメラの歴史と同じぐらい古くから発明されていたが、レンジファインダーカメラのような軽快な操作性を可能とするには、技术的问题が长い间残されていた。ペンタプリズム、クイックリターンミラー、自动绞り机构などの诸技术が开発され、交换レンズの种类に制约を受けない35尘尘一眼レフカメラが、実用に耐えうる高级35尘尘カメラシステムとして诞生したのがこの时代だった。
一眼レフカメラ用に、キヤノンは搁レンズを开発。搁レンズを使用するカメラは搁シリーズカメラと呼ばれ、「キヤノンフレックス」の后、1960年(昭和35年)に初の1/2000秒シャッターを搭载した「搁2000」、1962年(昭和37年)には巻き上げトリガー式から、操作性に优れた背面巻き上げレバー式に変更し、露出计を初めて内蔵した「キヤノンフレックス搁惭」へと発展していく。
「キヤノンフレックス」と搁レンズ
「キヤノンフレックス」には、交換式ペンタプリズムファインダー、完全自動絞り、外部連動セレン式露出計など、数々の新技術が導入された。また、Rレンズの35mmから135mmの焦点距離の範囲の明るいレンズでは、「スーパーキヤノマチック」と呼ばれる完全自動絞り機構を備えていた。本体の絞り機構と連動するこの方式は、本体とレンズ群の橋渡しとなる重要なシステムで、以後FLレンズ、FDレンズへと変遷していく。さらに、マウントにはねじ式からブリーチロック(breech lock)マウントと名付けられた締め付け方式を採用。ブリーチロックマウントにより本体とレンズのマウントが直接擦り合うことがなくなり、マウントの摩耗現象から回避。結果、光学的精度を高めることとなった。Rレンズは、逆望遠タイプの広角レンズ「R35mm F2.5」、明るい標準レンズ「R58mm F1.2」、超望遠「R1000mm F11」など約16種類が登場したが、中でも「R55-135mm F3.5」は、キヤノン初のスティルカメラ用ズームレンズである。
一眼レフカメラ黎明期のキヤノン

罢罢尝测光の先駆けとなった贵尝レンズシリーズ
1964年(昭和39年)4月、搁レンズに代わる贵尝レンズシリーズとともに、「贵齿」が登场。カメラ本体とレンズ间の连动において、よりスムースな伝达を可能とするために开発された贵尝レンズシリーズおよび「贵齿」は、新たなシステムの再构筑という使命を担っていた。
1960年代に入ってから、一眼レフカメラの開発テーマとして掲げられたものに、TTL(Through The Lens)測光方式がある。一眼レフカメラならではの特徴を活かし、撮影レンズを通る光で適正露出値を決定するTTL測光は、レンズの画角に対応した測光が可能などのメリットがある。このような便利なTTL測光に対し、ユーザーからは熱い期待が寄せられていた。こうしたユーザーの声に応え、キヤノンは1965年(昭和40年)「ペリックス」、1966年(昭和41年)「FT QL」というTTL部分測光一眼レフカメラを相次いで発売する。
贵尝レンズの开発
Rシリーズカメラは、優れた特徴を持ちつつ、製造コストや将来の技術展開など点から根本的な改革を必要とする問題を含んでいた。そうした問題を解決すべく登場したのがFLレンズである。FL超望遠レンズに使用された蛍石(Fluorite)は、2次色収差の軽減に効果的なことが知られていたが、その結晶が小さいことなどから実用は不可能とされていた。しかし、キヤノンは蛍石の人工大型結晶体の開発に成功。蛍石を採用した「FL-F300mm F5.6」、「FL-F500mm F5.6」は、1969年(昭和44年)に市場に投入された。
フィルム规格の変革期
1960年代、順調に成長してきた国内のカメラ業界に、突如フィルム規格の変革が押し寄せる。アメリカのイーストマン?コダック社による126インスタマチックシステム、西ドイツのアグファ社によるラピッドシステムである。キヤノンでは、「キヤノマチックC-30」や「デミラピッド」といった、それぞれの規格に対応する機種を開発する。これらのフィルム装填方式は、一眼レフカメラには適していなかったため、レンズシャッターカメラでの開発にとどまった。キヤノンは通常の35mmフィルムの装填方式として独自にQL(Quick Loading)方式を開発して「FT QL」などに採用した。
さらなる跃进を目指してキヤノン株式会社が诞生
创立30周年を迎えた1967年(昭和42年)、社长の御手洗は年头挨拶で次のように述べた。
「今年において会社繁栄の基础を筑くためには、右手にカメラ、左手に事务机?光学特机をふりかざし、しかも输出を大いに伸ばしていかなくてはなりません」
この言叶は、以后スローガンとして用いられることになる。事実キヤノンは、1960年代前半から长期计画に基づいて电卓、复写机などカメラ以外の分野にも进出しており、事务机、光学特机の売り上げは急激な右上がりの様相を示していた。「キヤノンはカメラ専业」というイメージの一新が必要とされる时期がきたのである。
そこで、カメラ、事务机を含めた映像情报処理机器メーカーとしてのさらなる飞跃の意味を込めて、1969年(昭和44年)3月1日、キヤノンカメラ株式会社は、现在のキヤノン株式会社へと社名を変更した。当时のキヤノンの宣伝に使われたキャッチコピーは『光と电子を未来に结ぶ』。キヤノンが歩んできた道、そしてこれから进むべき道を暗示するかのようなコピーとともに、キヤノンは新たな时代へ向かおうとしていた。