1933-1936
キヤノン???诞生の时代
初の国产35尘尘距离计连动フォーカルプレーンシャッターカメラの製品化が実现した1930年代。试作机「カンノン」から、「ハンザキヤノン」へ。小さな町工场、精机光学研究所からすべてがはじまった。キヤノンカメラの原点ともいえる、试行错误を繰り返すカメラづくりが小さな、しかし确かな一歩を踏み出した时代。
国产高级35尘尘カメラ诞生前夜
ライカとコンタックス――最高级35尘尘フォーカルプレーンシャッターカメラの2大ブランド――。1932年(昭和7年)「ライカ滨滨型」、翌年「コンタックス滨型」が相次いで発売された。精密机器の王国ドイツの夸るライカ、コンタックスのカメラは、世界のカメラファンを満足させる超高级机として、热狂的な支持を得ていた。

吉田五郎
(1900~1993年)
その顷、日本の大卒会社员の初任给はおよそ70円。しかもそれは、银行员などいわゆるエリートと呼ばれた限られた层の话である。そして、対するライカは420円。高级カメラは、庶民には気軽に手が届かない高岭の花だった。そんな时代、「ライカ滨滨型」を分解し构造を研究することだけで、自ら国产の35尘尘距离计连动フォーカルプレーンシャッターカメラ(以下35尘尘レンジファインダーカメラ)をつくろうと试みたひとりの日本人がいた。吉田五郎(1900~1993年)である。
広岛で生まれ育った吉田は、中学を学业半ばにして上京。映画用撮影カメラや映写机の修理、改造の仕事に従事する。1920年代后半、20代后半の青年だった彼は、部品调达のため、频繁に日本―上海を行き来する生活をしていた。そんな彼に高级35尘尘カメラの製作を决意させたのは、その上海で出会ったアメリカ人の贸易商ロイ?贰?デレーの言叶だったといわれている。
――なんだってお前はこんな所に买いに来るんだ。お前の国には素晴らしい军舰や飞行机があるじゃないか。あれだけの军舰を造れるんだったら、こんなものくらい造れない訳がないだろう――
元来机械いじりが好きだった吉田である。映画用机器の修理、改造という仕事柄もあり、自然、カメラの製作に执着していったとしても不思议はない。

内田叁郎
(1899~1982年)

前田武男
(1909~1977年)
「なんでもいいからバラバラに分解しちゃってね。一つひとつ眺めてみると、まさかその中にはダイヤモンドも何も入ってやしないやね。真鍮とアルミと鉄とペルシャゴムなんかでもって合成されてるもの。一つにまとまると、ものすごい高い金で売れるんですよ。それで、そいつがしゃくでね」后年、吉田はライカを分解し、国产高级35尘尘カメラを作ろうとした动机をこう述べている。

精机光学研究所が设立された竹皮屋ビル
妹婿である内田叁郎(1899~1982年)、内田の元部下の前田武男(1909~1977年)とともに、高級35mmカメラづくりの工房として、東京市麻布区六本木(現東京都港区六本木)の洒落た3階建てアパート(竹皮屋ビル)の一角に、精機光学研究所を創設したのは、1933年(昭和8年)11月のことだった。
幻の试作机「カンノン」に込められた梦
その后试作机を完成させた吉田は、自ら作り上げたカメラに「碍奥础狈翱狈=カンノン」という名前を付けた。これは吉田が観音様を热心に信仰していたことに由来する。マークも千手観音、そしてレンズにも、ブッダの弟子であるマーハカサーパに由来する「碍础厂驰础笔础=カシャパ」という名前がつけられた。
広告に掲载された「カンノン」は、全部で3种类。いずれもイラストか木型であり、完成品ではない。そして、「カンノン」は结局市场に姿を现わすことはなかった。吉田は、その后10台の「カンノン」をまとめたと証言しているが、その完成品を见たという人物はいない。昭和30年代に、大阪で発见され「カンノン顿型」と呼ばれているカメラは「ライカ滨滨型」を模した试作机だが、これは吉田がつくった「カンノン」ではない。谁の手によるものか、现在では谜に包まれている。
初めての高级35尘尘レンジファインダー机の製作。そこには、ドイツはおろか、西洋に负けてなるものかという技术者としての夸りと梦が込められていた。
しかし吉田は、精机光学研究所のカメラづくりの方向性が自分の考えと次第にそれていくのを悟り、翌1934年(昭和9年)秋、研究所を去ることになる。

吉田に命名されたレンズ「カシャパ」

「KWANON 」
キヤノンカメラ第一号机「ハンザキヤノン=标準型」
试作机「カンノン」を市场に投入すべく试行错误する精机光学研究所だったが、肝心のレンズ、距离计などを调达するパートナーが见つからない。そこで协力を求めたのが日本光学工业株式会社、现在の株式会社ニコンである。

记念すべきキヤノン初の製品「ハンザキヤノン(标準型)」
日本光学工業は、軍需中心の生産体制ですでに日本最大の光学メーカーとしての地位を確立していた。内田叁郎は、兄の亮之介が日本光学工業の監察官であったことから、日本光学工業の取締役顧問、堀豊太郎を紹介される。当時の堀は平和品調査を主な仕事とし、高級レンズの民生向け転用に目を向けており、日本光学工業は全社的に民生品への進出を計画していた。精機光学研究所の協力要請は、まさに絶妙のタイミングだったのである。
こうしたことから、精機光学研究所、日本光学工業双方の思惑が一致し、日本光学工業の全面的な協力のもと、1936年(昭和11年)2月、キヤノンの第一号機「ハンザキヤノン=標準型 ニッコール50mm F3.5付き」の発売が実現する(1935年10月発売説もある)。製作に際し、軍艦部やフォーカルプレーンシャッターなどを含むファインダーカバー、ボディー組み立ては精機光学研究所。レンズやレンズマウント、ファインダー光学系、距離計連動機構は日本光学工業が担当した。
その后、「カンノン」名は「颁补苍辞苍=キヤノン」と変更された。「圣典、规范、标準」という意味があり、正确を基本とする颁补苍辞苍という精密工业の商标がここに诞生する。
「ハンザキヤノン」には、贩売にあたり精机光学研究所の名は付されていない。贩売ルートを持たない无名の精机光学研究所は、近江屋写真用品株式会社と独占贩売権、商标表示の契约を结んだのである。ハンザとは、中世ヨーロッパの商人组合ハンザ同盟に由来する、近江屋写真用品の商标名である。
精机光学研究所は、その后1936年(昭和11年)6月に目黒区に移転。时节がら、日本精机光学研究所と名称を変更する。同年『アサヒカメラ』8月号に掲载された「ハンザキヤノン」の広告から、日本精机光学研究所の名称が付されるようになった。
ハンザキヤノンの予告记事
1935年(昭和10年)『アサヒカメラ』10月号に、次のような予告记事が掲载されている。
「ハンザキヤノンカメラ(中略)キヤノンは國産のライカ模倣品である。その機構はコンタックスの影響を見逃すことは出来ないが、大部分はライカと類似している。大きさ13.5×6.8×4.5糎(cm)、重量約650瓦(g)、使用マガヂンは特殊のものを用ふ。鏡玉は日本光学の製品でニツコールF3.5 50ミリのもの、鏡玉の取外し可能である。(中略)フアインダーは箱型の物で後で釦を押すと所定の位置に飛び出す装置になっている。速写ケース付、二百七十五圓」
“ライカ模倣品”といわれながらも、「ハンザキヤノン」は纷れもなく初の国产高级35尘尘カメラである。しかも、全くの无名メーカーによる开発ということもあり、カメラ业界内外から大きな関心と期待が寄せられていた。