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歴史馆年代から见る

1937年-1945年

1937-1945

高级35尘尘カメラの时代

「ハンザキヤノン」が话题となった精机光学研究所。やがて精机光学工业株式会社となり、カメラ生产?贩売も本格的に始动。信頼性あふれる高级35尘尘カメラづくりと、自社製レンズ「セレナー」の开発。世界に通用するカメラづくりをめざし、戦后の物资不足を乗り越え、キヤノンは瓦砾の中から再びカメラメーカーとして歩き出す。

精机光学工业株式会社としての新たなる一歩

1938年(昭和13年)当时の仕上げ风景

目黒区への移転と「ハンザキヤノン」の製作。それにともなう従业员の増加。日本精机光学研究所は顺调に成长を遂げているかに见えたが、その実、生产力は月に10台ぐらい、少ない时には週に1台がやっとだったとも伝えられている。日本初の35尘尘レンジファインダーカメラを発売したとはいえ、生产力の伸び悩みにより、経営的には苦しい状态だった。この経営危机を乗り越えるために打ち出されたのが、日本精机光学研究所の法人化である。

日本精机光学研究所は、出资者を募り、1937年(昭和12年)8月10日、精机光学工业株式会社となって新たな一歩を踏み出す。キヤノンはこの时を创业年としている。

キヤノン名を冠したカメラ

法人化により経営が轨道に乗りはじめた精机光学工业は、「ハンザキヤノン=标準型」に続いて、1939年(昭和14年)2月に「最新型」、「普及型」、同年末には「新标準型」を発売。新製品を次々と発表する精机光学工业だったが、カメラ製造の仕上げは部品ごとにやすりで削ったり、一台一台隙间を埋めて调整したりと、文字通りの手作业による生产体制だった。

近江屋が出した英文広告

「最新型」以后、その商标名からは完全にハンザの名前が消え「キヤノン」となる。だが、近江屋との関係は変わることなく、贩売にかかわる强力な支援が続いた。一般サラリーマンの月给が40~50円という当时、近江屋の営业マンは固定给约20円と决して高くはない。しかし、「标準型」を1台贩売するごとに5円の歩合がついたといわれている。「普及型」といえども、サラリーマンが购入するにはまだまだ値が高すぎる时代。カメラの购买层は自ずと限定されており、近江屋の営业マンは、小売店ではなく购买力のある个人の顾客に的を绞った贩売戦略をとっていた。この戦略は见事に当り、営业マンの収入と士気を高めることになった。

順調な販売の伸びを見せるキヤノンの高級35mmカメラ。その販売を受け持った近江屋には、すでにライカ、コンタックスが地盤を築いていたヨーロッパへの進出という、夢のような計画もあったようだ。1938年(昭和13年)イギリスの写真業界誌『The British Journal of Photography』3月号には、近江屋による「HANSA CANON」の広告が掲載されている。

自社製レンズ「セレナー」の製作

精机光学工业の高级35尘尘カメラは、「标準型」「最新型」「普及型」「新标準型」とラインナップが整い、国产高级35尘尘カメラ=精机光学のセイキキヤノンと称されるようになった。そんな中、自分たちの手でキヤノンカメラ用のレンズをつくりたいとの声があがったのは、1937年(昭和12年)の半ば顷だった。精机光学工业の最初の光学技术者である古川良叁は、试作レンズ「蹿=50尘尘贵4.5」や製品化した「蹿=50尘尘贵3.5」、距离计非连动ながらも「蹿=135尘尘贵4」などのレンズを生んだ。また16尘尘シネカメラ用の「蹿=45尘尘贵0.85」などの试作や、X线间接撮影カメラ用のレンズにもたずさわった。

初期のキヤノン齿线间接撮影カメラ

「f=50mm F3.5」や「f=135mm F4」に冠せられた「セレナー」という名は、社内公募によって選ばれた。「セレナー=Serenar」には、セレン=澄んだという意味があり、月面にある海の名前に由来している。

御手洗毅 代表取缔役に就任

御手洗毅
(1901~1984年)

1942年(昭和17年)、御手洗毅(1901~1984年)が社长に就任。御手洗は、内田の古くからの友人としての精机光学工业の后押しをしていたが、その本业は产妇人科医であった。大病院の产妇人科勤务を経て、东京目白に御手洗产妇人科病院を设立。その后、精机光学工业の监査役を経て社长に就任した変わり种である。

また、戦後、御手洗が唱えた「ライカに追いつき、ライカを追い越せ」という精神は全社内にいき渡り、戦後の会社復興の原動力となる。彼は、利益を労働(社員)、資本(株主)、経営(会社)で三分しようという「三分説制度」や、「実力主義」「健康第一主義」「新家族主義」の3本柱によって、現代に通じる会社の基礎を作り、G?H?Q「Go Home Quickly~早く家へ帰れ!」と唱えた家族主義、全従業員の士気を高める報奨金制度など、数々の改革を行なった。

瓦砾の中からの復活

1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争が终结した。多くの大都市が戦祸に见舞われた中、精机光学工业は幸いにも大きな损失を免れていた。前年(昭和19年)に株式会社大和光学製作所を吸収合併してできた板桥工场の一部を终戦间际の失火で焼失したにとどまり、目黒本社工场と、细々ながらカメラ生产を続けていた疎开先の山梨県宝村工场、谷村町工场はほとんど损害を被ることなく残ったのである。とはいうものの、物资欠乏、终戦という虚脱状态が国中に蔓延する时代である。「何をしてよいのやらさっぱりわからない。すぐさま工场を闭锁し会社を解散する。しかし、もしまた私が旗上げをした时には、君たちにも是非驰せ参じてもらいたい」という御手洗の言叶とともに、会社は一时休业、解散する。

復兴の时は意外にも早くやってきた。进驻军(わが国に进驻してきたアメリカ军を中心とした连合国军)は日本製カメラに大きな関心を寄せており、御手洗は、カメラづくりを再开することは决して不可能ではないと考えたのである。そして解散より约2ヵ月后の10月1日、进驻军への民需製品製造の许可を得て、精机光学工业はカメラ製造への道を再び歩き出す。

戦後復興後の第1弾「J II型<J戦後型>」

戦後のカメラ第一号は「J II型<J戦後型>」と呼ばれている。これは「標準型」などの部品をかき集めてつくられたもので、ファインダーカバーの形状などが従来の普及型と異なっているのが特徴。1945年(昭和20年)に生産されたのは、わずかに3台と記録されており、会社再興への苦しい道のりを物語っている。

社外の贵重な助言者

日産自動車株式会社の設立に参加した帰化アメリカ人、合波武克人(ごうはむ?かつんど)。1940年代、彼は度々キヤノンを訪れては、機械の導入、技術改善などについて有益な助言、示唆を与えてくれたという。合波武克人は、元の名をWilliam R.Gorhamといい、1941年(昭和16年)に帰化した異色の技術者である。彼は、毎日の生産量を決めて均等に生産する「デイリープロダクション」を提唱、実施。また、製品の検査部門を独立させて社長直属とし、工場長の顔色を気にせずに厳しく検査できる態勢も整えてくれた。こうしたアメリカ流ともいうべき合理的な改善策のほかにも、その温かく、同時にエネルギッシュな人がらによって、合波武克人はキヤノンの近代化に大きな役割をはたした助言者といえるだろう。彼は、1949年(昭和24年)10月に亡くなったが、その最期を看取ったのは御手洗毅であった。